拡張ゼミです。深い教養と洞察から生まれる知と感動についてゆるーく考えていきます。右脳ゼミは〝教養主義宣言〟!
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ファッシリテーターのちにたさん、グラフィカル記録担当のにじはんさん、どうもご苦労様でし た。 初回のやわらか右脳ゼミ会議だったわけですが、これほど上手にまとめてくれるとは思っておりませんでした。Good Job!です。 また、今回、さまざまな名言も生まれました。 ひとつは「聖フランチェスコのバランス感覚」。これはなるほどですね。ルネサンスに先立つ時代に、キリスト教会の立場から、信者の選択するという主体性を尊重していた人がすでにいた、ということです。対立していそうなことの間で調和や調整をとっていくのは難しいことですが、大切ですね。 もう一つは、「残*感」。うーん、もうひとつまとまらない、何かすっきりしないと苦しんでいた記録のにじはんさんがのたまわれました。ゼミ訓に上品な右脳ゼミ、というのも追加しておきましょう。
「残*感」という言葉を吐いてしまったにじはんです。上品な右脳ゼミ目指して頑張ります。最後まですっきりとしないあの感覚は何だったのか・・あれからずっと頭の中で繰り返し考えています。私が引っ掛かったのは、最後の一行に行き着きましたが、その前の一行とのギャップを感じたのだと思います。だからもう少しその間にあればきっとそのギャップは埋まるのだろうと思います。「子供の学びを尊重する」ことと「個々の人間の発達を大切にする特別支援教育」の間にもう少しあれば飛躍しなくて済むのではと感じました。私ももう少し考えてみます。何かあれば教えてください。 上品な右脳ゼミ推進委員会副委員長兼副書記 にじはん
むりやり最後の一行に集約させたぷんくまです。にじはんさんの「**感」(笑)について考えました。たしかにここにはちょっと飛躍があるような気がします。「子ども」という大きい視点から「特別支援教育」という少し絞った視点に一足飛びに飛んでしまうからかな?「特別でない特別支援教育」(この表現を使うのが妥当かどうかについても議論が必要な気がしますが)すなわち「一人一人の教育的ニーズ」に対応するという視点の議論が必要なのではないでしょうか。本格的な風邪をひいてしまい、また熱が出てしまいました。こんな生活を続けていると、長生きできない気がする(>_<)
ぷんくまさん 体大丈夫ですか?小さい庭に夏野菜の苗を植えたにじはんです。まだまだすっきりとしないのですが、書くことによって少しずつ何かに行き着くのではないかと思い、書いてみることにしました。特別支援教育への転換を図ったことによって何が変わったのか?今までの特殊教育は、障害のある子供に対して、特別な場所で教育を行うことでした。しかし、特別支援教育は、さまざまなニーズを持つ子供一人ひとりに対して、そのニーズに応じた教育を行っていくという教育です。これは従来の教育を特別支援という視点で点検し、必要なスパイスを授業に加え仕上げていくことではないかと考えます。そして、こういった視点は今までの視点とは少し違い、個々の子供の発達や認知特性を見ていくという意味で、新しい視点であると思われます。つまり、このような新しい視点で教育を見つめなおすこと、そして、それにより通常の学級での授業づくりが少し変わっていくことなどが期待されます。きっとこれを後世の人が見て、「個々の子供の発達に焦点を当てた教育ルネッサンス(再生)」と呼ぶようになれば、特別支援教育はまさに教育史上の一つのルネッサンスになるのではないでしょうか?もちろんその道は平たんではありません。今までの教育にしがみついている(中世のような)教育者の無理解が、その浸透を妨げるかもしれません。しかし、ひとりひとりの特別支援教育推進者(いわゆる「見たい知りたいわかりたい」と真摯な気持ちで教育に当たる教育者)の地道な努力により、きっと道は開かれるのではないでしょうか?やや大風呂敷を広げてしまった感は否めませんが、もしも最後の二行のギャップが埋まればと思いました。あらためて大きなギャップになったと感じられた方は、すみません。少しすっきりとした「にじはん」でした。
にじはんさんの「残*感」が少なくなったようで、たぬき猫もほっとしました。健康が一番?ですから。さて、ここでは科学的思考や合理精神の発展がルネサンス以降の時代に及ぼした宗教への影響について補足しておきましょう。宗教を広めていくにあたっては、信じる者は救われる、ということが強調されてきました。そうでなければ、教会の権力によってさまざまな不利益を受けたりといったこともしばしばあったのが中世という時代でした。しかし、科学的な思考によって生まれた知識によって、教会が言っていたことが真実でないことがしだいに明らかになっていったのです。このように考えていくと、我々が正しいと思っていて、信念にまでなっていたことを改めて見直す必要があるだろうこと、そのためには合理精神に裏打ちされた知識が大きな貢献をしてきたことがわかります。
遅ればせながら、ファシリテーターを務めた ちにたです。しゃべりすぎた感や、無理やり感が否めない進行であったことお詫びします。にじはんさんの見事な書記に助けられました。感謝。さて、「我々が正しいと思っている信念を合理精神に裏付けされた知識によって見直す」ということ、これは特別支援教育だけでなく、あらゆるものの発展と進化に必要なことですね。常に自分の考えをリライトしていく柔軟さを持つ。でも、それだけではいずれ軸がぶれてしまう。だからこその「合理精神」、なるほど。自分の信念を見直し自己変革を遂げる人が教育界に増えれば、それが総体としての「教育ルネッサンス」につながるのかも知れませんね。
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返信削除ファッシリテーターのちにたさん、グラフィカル記録担当のにじはんさん、どうもご苦労様でし た。
返信削除初回のやわらか右脳ゼミ会議だったわけですが、これほど上手にまとめてくれるとは思っておりませんでした。Good Job!です。
また、今回、さまざまな名言も生まれました。 ひとつは「聖フランチェスコのバランス感覚」。これはなるほどですね。ルネサンスに先立つ時代に、キリスト教会の立場から、信者の選択するという主体性を尊重していた人がすでにいた、ということです。対立していそうなことの間で調和や調整をとっていくのは難しいことですが、大切ですね。
もう一つは、「残*感」。うーん、もうひとつまとまらない、何かすっきりしないと苦しんでいた記録のにじはんさんがのたまわれました。ゼミ訓に上品な右脳ゼミ、というのも追加しておきましょう。
「残*感」という言葉を吐いてしまったにじはんです。
返信削除上品な右脳ゼミ目指して頑張ります。
最後まですっきりとしないあの感覚は何だったのか・・
あれからずっと頭の中で繰り返し考えています。
私が引っ掛かったのは、最後の一行に行き着きましたが、その前の一行とのギャップを感じたのだと思います。
だからもう少しその間にあればきっとそのギャップは埋まるのだろうと思います。
「子供の学びを尊重する」ことと「個々の人間の発達を大切にする特別支援教育」の間にもう少しあれば飛躍しなくて済むのではと感じました。私ももう少し考えてみます。何かあれば教えてください。
上品な右脳ゼミ推進委員会副委員長兼副書記
にじはん
むりやり最後の一行に集約させたぷんくまです。
返信削除にじはんさんの「**感」(笑)について考えました。
たしかにここにはちょっと飛躍があるような気がします。
「子ども」という大きい視点から「特別支援教育」という少し絞った視点に一足飛びに飛んでしまうからかな?
「特別でない特別支援教育」(この表現を使うのが妥当かどうかについても議論が必要な気がしますが)すなわち「一人一人の教育的ニーズ」に対応するという視点の議論が必要なのではないでしょうか。
本格的な風邪をひいてしまい、また熱が出てしまいました。
こんな生活を続けていると、長生きできない気がする(>_<)
ぷんくまさん 体大丈夫ですか?
返信削除小さい庭に夏野菜の苗を植えたにじはんです。
まだまだすっきりとしないのですが、書くことによって少しずつ何かに行き着くのではないかと思い、書いてみることにしました。
特別支援教育への転換を図ったことによって何が変わったのか?
今までの特殊教育は、障害のある子供に対して、特別な場所で教育を行うことでした。しかし、特別支援教育は、さまざまなニーズを持つ子供一人ひとりに対して、そのニーズに応じた教育を行っていくという教育です。
これは従来の教育を特別支援という視点で点検し、必要なスパイスを授業に加え仕上げていくことではないかと考えます。
そして、こういった視点は今までの視点とは少し違い、個々の子供の発達や認知特性を見ていくという意味で、新しい視点であると思われます。
つまり、このような新しい視点で教育を見つめなおすこと、そして、それにより通常の学級での授業づくりが少し変わっていくことなどが期待されます。
きっとこれを後世の人が見て、「個々の子供の発達に焦点を当てた教育ルネッサンス(再生)」と呼ぶようになれば、特別支援教育はまさに教育史上の一つのルネッサンスになるのではないでしょうか?
もちろんその道は平たんではありません。今までの教育にしがみついている(中世のような)教育者の無理解が、その浸透を妨げるかもしれません。
しかし、ひとりひとりの特別支援教育推進者(いわゆる「見たい知りたいわかりたい」と真摯な気持ちで教育に当たる教育者)の地道な努力により、きっと道は開かれるのではないでしょうか?
やや大風呂敷を広げてしまった感は否めませんが、もしも最後の二行のギャップが埋まればと思いました。
あらためて大きなギャップになったと感じられた方は、すみません。
少しすっきりとした「にじはん」でした。
にじはんさんの「残*感」が少なくなったようで、たぬき猫もほっとしました。
返信削除健康が一番?ですから。
さて、ここでは科学的思考や合理精神の発展がルネサンス以降の時代に及ぼした宗教への影響について補足しておきましょう。
宗教を広めていくにあたっては、信じる者は救われる、ということが強調されてきました。そうでなければ、教会の権力によってさまざまな不利益を受けたりといったこともしばしばあったのが中世という時代でした。
しかし、科学的な思考によって生まれた知識によって、教会が言っていたことが真実でないことがしだいに明らかになっていったのです。
このように考えていくと、我々が正しいと思っていて、信念にまでなっていたことを改めて見直す必要があるだろうこと、そのためには合理精神に裏打ちされた知識が大きな貢献をしてきたことがわかります。
遅ればせながら、ファシリテーターを務めた ちにたです。
返信削除しゃべりすぎた感や、無理やり感が否めない進行であったことお詫びします。
にじはんさんの見事な書記に助けられました。感謝。
さて、
「我々が正しいと思っている信念を
合理精神に裏付けされた知識によって見直す」
ということ、
これは特別支援教育だけでなく、
あらゆるものの発展と進化に必要なことですね。
常に自分の考えをリライトしていく柔軟さを持つ。
でも、それだけではいずれ軸がぶれてしまう。
だからこその「合理精神」、
なるほど。
自分の信念を見直し自己変革を遂げる人が教育界に増えれば、それが総体としての「教育ルネッサンス」につながるのかも
知れませんね。