2010年4月22日木曜日

エヴァンゲリオンのキリスト教観



ちにたさんが教えてくれたエヴァをより楽しむYouTube動画はこれでしょうか。キリスト教では、人間は原罪を背負った存在であると言われるように、贖罪はキリスト教の教義のなかでも中心的なものなのでしょう。そこで、不完全さをもっている人間を補完してしまおうというのが人類補完計画なわけですね。これしちゃっていいの?と戸惑いながらエヴァの物語は進んでいきます。これはつまり神と同等な存在になることを意味しますから。

指令中枢であるゼーレの目的と実施機関であるネルフのヘッドであるゲンドウの思惑はどうも違うようです。不完全さと言うと何か満たされないもの、というイメージもあるかと思います。エヴァンゲリオンでは、ヒトの心のなかにも何か満たされないものがあるんだけど、これ補完してしまっていいの?と言ってるような気がしますね。

11 件のコメント:

  1. そうです。これです!
    エヴァを「わかりやすく」しているのではなく、
    「楽しく」見れるようにしているというところがいいなと
    個人的には思っています。
    何もかもわかりやすくすることを
    「よいこと」と思っていないので。

    満たされない不完全さ、確かにそうですね。
    しかし「それぞれに不完全であるがゆえに個が確立する」 
    というものを 言いたげにも感じます。

    そのような感覚は 欠けた器にも美を見出す
    日本人ならではなのでしょうか。

    エヴァの海外評価が気になるところです。

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  2. エヴァでは、自己の不完全さを意識するがゆえに悩むシンジ君と気にもとめないアスカが好対照ですね。悩んでいるシンジ君は、なんとか壁を乗り越えるような越えないような状況のなかで、成長していっている感じがします。

    壊れた器の破片を紡いで、それもいいと感じるのは日本人の美意識なのでしょうね。おそらく、これは失われたものへのはかなさを情緒的に感じ取っているからではないでしょうか。均整のとれた美しさは意外とエモーショナルではないですよね。覚醒はしますけど。

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  3. それから「個が確立する」ということは、自分一人の問題なのでしょうか。ほかの人から「完全じゃない」と言われてしまうこともありますよね。これって、ダメージ大きいです。

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  4. 「個」をどう考えるかということですが、
    他の「個」との関係は無視できないとおもいます。

    「差別化をはかる」という言い方で商業戦略でも用いられますが、完全なものではないからこそ、どの不完全さに着目するか、その違いや工夫が「ウリ」になるわけです。
    その違いを際立たせるときには、やはり、他の「個」の存在が重要な意味を持ちますよね。

    アスカの「はぁ、あんたばかぁ?!」は
    確かにこたえます。

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  5. 「個」という考え方は、「神=全きもの」と「私=不完全」との関係から生まれたのだと思います。
    不完全であることを「それでええねんで」と神様が赦してくれる、それで「私」は今日も生きていけるわけですね。
    これが「私」の「個」。

    ふと隣を見ると、同じように神に赦されている「他者」がいる。これは「他者」の「個」。

    「他者」も「私」も不完全であり、神から赦してもらう存在としては同じ。だから、相手が不完全でも赦すのが当然なわけです。そして同じ重みとして存在するのが当然なんです。

    他者の不完全を非難するのは、神なき行為であり、傲慢なんですよね。理論的には。

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  6. アスカに「あんたばかぁ?!」と言ってもらいたい?たぬき猫です。

    「あんたばかぁ?!」は誰から言われるか、どんな時に言われるかでダメージになるか快感を感じるか違うんですね。

    ということは、このへんの状況をどう捉えているか(捉えられるか)、的確に捉えているかということが大切だと思うんです。もちろん、それまでのパーソナルな経験も物を言いますよね。嫌な思いをさせられた人から、表面的に丁寧なことを言われても、フン!という感じでしょうから。

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  7. ぶんくまさんが言われているように、不完全であるが故に個性が生まれ、人間たらしめているのだろうと思います。ゼーレが人類の補完を遂行するという名のもとに計画を遂行したことは、人間が神と同じ存在になろうとしたことに他なりません。

    前の劇場版でシンジ君は、その寸前、つまり個の存在を否定してみんな融合してしまうという段階に至りますが、彼なりの判断で思いとどまります。ここには、おそらく庵野監督自身が個を失って全体に埋没してしまいそうになった思春期の経験が反映されているだろうと思います。

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  8. 「個を失って全体に埋没してしまいそうになった思春期の体験」って、どんなことなんでしょう?

    夏目漱石は、絶筆となった「明暗」という小説で「則天去私」の境地に至ったと言われています。「私を取り去って、天に従う」これは「禅」の思想・・・道教思想などにも通じるのでないかと思うのですが・・・
    この心境とは違う体験なのでしょうか。

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  9. その思春期の経験というのは、庵野さん固有の具体的なものと考えていただなくてよいと思います。子どもから大人へ成長していくなかで、自分とはいったい何者なっだだろうと考え込む時期がありますよね。この際に、自己の確立が危うい状態になってしまうと、何か全体に飲みこまれていくような恐怖を感じてしまうのではないか、ということです。

    「私を取り去って」といのは私欲に惑わされずに、という風に解釈しましたが、どうなんでしょう。物が欲しい、社会的な名誉を得たいという野望なんかはもういらない、こんな心境に到達したということでしょうか。これは、まさに東洋的な思想ですね。西欧の考えだと、ボランティアしましょう、になっていくのかな。

    それから、こんなHP見つけました。

    http://gitanez.seesaa.net/article/51301938.html

    岡倉天心と茶と組織論について書いてありまする。
    お茶の世界というと、形を重視しているのかなと考えがちですが、そこに込められたプロセスを大切にしているですよ、ということらしいです。主人とお客さんとのコラボレーションなんですよ、と。なるほど。

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  10. エヴァとキリスト教、そして茶の世界、漱石
    一見ばらばらに見える中にも
    「世界観」「絶対的価値と個」など共通項が見え、
    また、ちがいをもちつつ重なり合い
    万華鏡のような美しさを感じます。

    茶の湯を確立した千利休がとりいれたことで有名な
    ミサの様式美も「形」として語られることが多いのですが、
    あれは、神と参加者のコミュニケーションによる
    「赦し」への過程であり、
    コラボレーションともとれるのではないかと思います。

    ですから、語らぬ神の具現化として「法王」の存在があるわけで…
    おやおや、「ルネサンス」ともつながりそうです。
    万華鏡に酔いそうなので、この辺で。

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  11. エヴァンゲリオンのミサトさんの名前はミサに由来するという説があったりします。ミサトさんは、いつも十字架をつけています(少なくとも、新劇場版「序」では)。

    新劇場版「序」のブルーレイ版を見るために、ブルーレイプレイヤーを買ってしまいました。

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