2010年5月3日月曜日

エヴァンゲリオンと心の壁

エヴァンゲリヲン新劇場版:序のブルーレイ版をすでに2回見てしまったたぬき猫です。

先回はエヴァとキリスト教について考えてみましたが、今回はエヴァにおける「個」の取り扱いについて理解を深めたいと思います。

ゼーレの人類補完計画では、知恵の実を食べた(もった)けれど未だ何か不完全な人類と生命の木(永遠の命)を融合させることを目的としていました。これは、キリスト教史観レベルでの壮大な野望です。

一方で、思春期のシンジ君たちにとっては、他者との関係を築いていくなかで満たされない何かを感じて過ごしていました。シンジ君にとって他者(とくに、ゲンドウパパ)は僕をわかってくれないと悩みます。また、他者との間には自分からATフィールドを展開してしまっています。個のレベルでは、ATフィールドは心の壁です。

他者からわかってもらえない、他者の心を理解できないとなれば、他者と融合するしかその解決はないと考えてしまうのも仕方ありません。シンジ君個のレベルでも、他者との融合つまりサードインパクトへの願望に満ちていたのです。

しかし、シンジ君は主体性をもって、それを選択しなかったのです。これが、シンジ君にとっての個の確立だったのです。

2 件のコメント:

  1. エヴァ初心者の昼ままです。
    Yahooのサービスで4話まで見たところでいきなり最終話に行くという卑怯な行為に出てしまいました。
    斬新な最終話を見ての感想です。

    前回の「禅」の中でも話題になった「十牛図」の空白の一枚とのつながりを感じました。
    しかしこれを言葉にしたり、文章でまとめると、感じたこととはまた違ってるような気がします。頭にうかんだキーワードは

    「なにもない白紙の世界」「自他の区別をつけるもの」
    「心の中の境界線」「どのようにわけるか、線を引くかは誰が決めてる?」「絶対否定 そのあとの絶対肯定」

    やはりうまく言えないです。「十牛図」があの空白で終わっていないところが肝心なところかと思います。境界がなくなって「無」になったところで終わるのでなく、もう一度世界が始まっている。最終話の絵がどんどん簡素化されていき、また戻っていくような・・・

    全くまとまらないコメントですみません。今感じたことを残したくて投稿しました。

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  2. 禅思想から見るエヴァも興味深いですね。プロセスを比較すると確かに似ていますね。

    禅ではあくまで自己から他者を見た世界観ですが、エヴァでの主題は、他者からどう自分が見られているか、受け入れられているか、かなと思っています。

    ATフィールドのATはAbsolute Terrorの略で「絶対恐怖」です。これは、他者との心の壁を象徴しています。

    シンジ君はうじうじしてアスカを助けに行くことができません。自分自身のことで悩んでいる青年ですが、ゲンドウパパからほめてもらいたい、認められたいという気持ちでいっぱいです。

    他者という存在を気にしないための決定的な方法は、他者と自分の壁をなくして融合してしまうこととなります。この状態がいわば無。

    昼ままさんが言っているように、作画が簡略化されていたのは時間と予算がなかったからではなくて、これを表現したかったんだ!

    エヴァでは、無になる一歩手前でふみとどまって、シンジ君の個が確立したとたぬき猫は見ています。

    TV版でそのあとは、学園エヴァになちゃって、登場人物はみなむちゃ明るいキャラになっちゃてます。一皮むけたというか、これがエヴァの悟り。

    また、エヴァはループと成長の物語なんです。ループしながら、登場人物が明るくなって(補完されて)いきます。これは、エヴァの輪廻転生。

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