2010年6月25日金曜日

"つるはし"で自己本位を掘り進む

5 件のコメント:

  1. アップが大変遅くなりました。申し訳ありません。

    私自身がアップアップしていました。
    記録をしながら考えることで、この時も壊れていました。

    にじはんさんの「国家主義と個人主義」のご意見を記録できなかったのが残念です。

    すみませんでした。

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  2. やわらか岩石さん、アップ、ありがとうございました。
    写真がとてもきれいです。

    漱石を久しぶりに読んで、やわらかゼミで皆さんのご意見をうかがいながらいろいろな漱石的課題に触れるうち、ワクワクしている自分に気がついたぷんくまです。

    「鶴嘴」なんて握ったことはないけれど、
    「がちり」と掘り当てるというその手ごたえ感が、私にもリアルに感じられるような気がします。
    表現の質感といいますか、身体的な感覚が読後に残ります。

    日々の生活の中で、このようにまた読書の楽しみを取り戻すことができて、幸せだなあと感じています。

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  3. 鶴嘴って、なかなか難しいです。狙い通りになかなかいきません。体全体の動きがバランスよくいかないと、「へなへな~」となってしまいます。うまく狙いを定めても、なかなかそこには当たりません。
    ところで、「個人」と「国家」の問題ですが、私がゼミの中でどんな風に発言したかをすっかり忘れてしまっているので、もしかしたらとんでもないことを書くかも知れません。矛盾していたらすみません。

    私は「個人」と「国家」ってお互いに必要条件になっているように思います。「国家」は個人の集合体として、イデオロギーを決定し、存在するものだと思っています。
    反対に個人のアイデンティティーを決定しているのは、実はその人が生きている地域社会や教育、文化などによって「規定」されているのではと感じています。
    我々個人は、国家という枠組みの中で発達成長している存在だと思うのです。
    だから「個人」と「国家」は相反する存在ではなく、相互に補完しあう存在なのではないかと感じています。

    気をつけないといけないのは、「国家主義」を個人を全く無視した主義と捉えてしまうことだと思います。

    ちなみに「相互補完」という考えにはじめて出会ったのは、大学時代でしたから、20年以上も前のことです。私は教育学部で教員養成課程にいたものですから、こんなことを言っても誰にも相手にされず、「変わった人物」というとらえ方をされていたように感じています。
    それ以降、何かあるたびに、この言葉を思い出してました。
    やっぱり変わってますよね(笑)

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  4. にじはんさん「個人」と「国家」の関係のお話、ありがとうございます。
    やはり「個人」を無視した「国家」は成り立たないですね。昔は・・・?「個」と「公」についてと同じような感じですね。
    世の中って「相互補完」だと思います。

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  5. 漱石の「私の個人主義」は、現代にも通じる考え方を提示していますが、やはり漱石が生きていた明治時代というものを考えないといけないでしょう。

    明治時代は、日本が西欧の影響を大きく受けつつ、政治、産業や暮らしの西欧化が激しく取り入れられた時代と言えます。

    漱石が、そうしたうわべだけの、ある意味浅はかな西欧化への危惧をあらわにしたのが「私の個人主義」だったと考えることができます。

    現代でも、この様相が変わっていないことを思うにつけ、漱石の眼力には頭が下がります。

    青空文庫で「それから」を読み始めたたぬき猫でした。

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